眠るまでに見た夢のこと

眠るまでに眼に映った事聞いた事、読んだ本やった事行った所思った所を書きます。時々、眠った後に思ったことも書きたい(願望)

「すごくリアルな日本映画」――『シン・ゴジラ』を観た

いつぞや。アメリカ版の「ゴズィラ」を観た時にも感想を更新していた。

 

sjuuuuran.hatenablog.com

 この時は色々あったが、要約すると「godzillaは第一作のゴジラの系統」であり、どういう事かというと「人間の身勝手で産み出された厄災」であり、「どうする事も出来な超常的なパワーで僕らを破壊しまくる」というゴジラの姿だ。そして質感の良さとか3Dの良さ、後は引き起こされる津波のシーンから「とてもリアルだった」と感想している。

で、今作。


『シン・ゴジラ』予告

 

今作はどうかというと……面白かった! 二回観たし、多分三回目も観そうである!

 

まず音楽が良い! ゴジラ伝統の音楽をふんだんに使っている。下手に新しいのは遣わなくてもあの重いサウンドを腹に叩き込んでくれれば心はぴょんぴょん不可避で何も問題がない! 後プラスで遣われた音楽はエヴァっぽいが、というかゴジラエヴァっぽいというかエヴァゴジラっぽいというか、セカイ系とはかけ離れているが「自分にはどうしようすっげぇやっべぇのが来た」時のやっべぇ存在なんだから似通ってもいいじゃん。新幹線&在来線の皆、恨みが晴らせてよかったな!

 

そしてゴジラのフォルム。不気味で愛嬌がありデカくて強くて神秘的と、言う事がありません!

 

俳優! 超豪華! 石原さとみが真顔でルー大柴みたいな感じで喋ってる! これだけでご飯おかわり! 実はルー大柴すごいんだ! 大柴は出てないけど前田敦子がちょい役で出てたり塚本監督が生物学者になってたり原一男監督が御用学者になってる! 演技ぃ! おっさん俳優集合させすぎかよどうなってんだ皆かっこいいぞ! とか、豪華すぎてよくわからないくらい豪華すぎました。

彼らがめっちゃがんばってゴジラと戦うんですよ燃えるでしょこれ……

 

台詞回しも(総理大臣が「どうするんだよ記者会見で言っちゃったぞ?」とか笑うし、余りに甘利大臣に似た俳優が「ちょっと想定外すぎるなコイツは……」と言うともう吹きだす)とても良いし、映像はド迫力で自衛隊のドンパチは全く躊躇いがないし、ゴジラの放射熱戦は美しいと言っていいほどの映像美だし、カメラワークも逃げる人々の混乱っぷりが良く伝わって来て手に汗握る感じでした! 面白かった!

 

……と書き連ねていくと(心はぴょんぴょんするが)あんまり意味がないし、僕の書きたい欲も満たされないので如何に少しまとまって残しておきたい。

 

面白かった、の後の感想は、

ゴジラだ……それに、すごいリアルな日本映画だな」と考えた。

どういう事か。つらつら書きたい。

 

①すごい「リアル」な日本映画

 

かぎかっこの位置を変えてみた。どういう事かというと、「もしゴジラが現れたら皆どうするんだろうなぁ」というのを可能な限り地面に張り付いて描いていると思ったのだ。

ストーリーとしては何のことはない(ゴジラ映画的な意味で)。ゴジラが海の向こうから現れ、日本を踏みつぶしまくり、なんとかかんとかがんばって、ゴジラに御鎮まりいただく映画だ。

そして主人公は政治家と官僚、公務員達である。ゴジラ特別対策本部的な面々の頑張りを描くのだ。

 

特徴的なのは次だ。まず冒頭にゴジラが現れる。すると、延々政府の会議のシーンが映されていく。「あの水蒸気爆発の原因は」「海底火山」「原子潜水艦が爆発」「未知の生物が」なんてのを延々と繰り返し、官僚と政治家、内閣の面々がああでもないこうでもない、「法律では自衛隊東京湾に出動させるのはどうやればいいのか」、「経済的損失は」、「羽田は封鎖されているんだぞ早くなんとかしろ」、「想定外なんだから仕方がないじゃないか」

とテンパりながらも恐らく実際にゴジラが現れたら必要になるだろうと思われる形式的な会議やなんやをしつこく描いていくのだ。

それでもカメラワークや配役、何よりもリズム感によって失速感を得ずに面白く作っているのはチームの力だろう。

 

この後も「いざ自衛隊ゴジラと戦うならどこで守って何の武器を遣って、誰が決めて誰の裁可をどういう承認ルートで貰うのか」「東京の災害対策室がゴジラが現れたらどのように指揮を執るのか」「官邸がぶっつぶされたならどこに避難してどういう臨時内閣が組織されるのか」「U.S.Aが圧力をかけて来たのならどういうルートでどこの省庁にまず圧力がかかり、受け取った政府は誰がどうするか」なんていうのが延々、本当に延々繰り返される。

こう纏めると奇態に映るかもしれないが、「ゴジラが現れたならどうするのか徹底密着24時」的な側面がとても強いのだ。そして対応を生々しく描くことで、その対象であるゴジラその物がリアル浮かび上がる。その意味でとてつもない緊張感とワクワクが味わえる作品になっていた。

 

つまりこの映画は、特撮だが妥協(スーパー戦隊でレッドが大活躍して危機を乗り越える的な、良い意味での妥協)が無い、とてつもなく「リアル」な映画だ。

 

②「すごい」リアルな日本映画

 

かぎかっこを変える。上でまとめたように、この映画はとてもつもなくリアルな「ゴジラ対日本」だ。そして強調したいのは「この映画の日本の対応はほぼパーフェクトに近い」という事である。

今作のゴジラは体長は百メートルのK点越え、機関銃もミサイルも大砲もイージスの巡航ミサイルも、対地中ミサイルも、なんならデイジーカッターも核すら効きそうにない相手だ。そして熱光線の威力はシリーズ随一を誇るヤバさ。

何をどう頑張っても無理なのである。

 

だが、主人公並びに日本政府の面々は断固諦めない。誰一人「も、もう無理だうわああああん!」とか言い出さないし「ワイはマッマの元に帰るんやで。最期は親孝行や」みたいな事を言い出すなんJ民も居ない。各々が各々の持ち場職場職務を粘り強く全力でこなしていくのだ。

〈理想的な、あまりに理想的な〉――「すごい」奴らが頑張るリアルな日本映画を描いた作品だ。その点で、この作品は大震災や経済危機その他諸々の難所で時の政権与野党問わず醜態を晒し続けた泣きたいような現実とはあまりにかい離しているとは言える。

フィクションだがリアルを獲得したこの映画と組み合わせると、少し面映ゆくなる感すらある映画だ。

 

*この点を取り上げ「政権賛歌だ!」なんて感想も見えたが、仕方ないだろう。事実ゴジラが現れたら対応するのは政府だろうし、わかりやすい敵と危機を前にすると団結の必要性を感じて政府の支持率は上がる物だ。そういった所もリアルに描いたというのが正しいと思う。

 

でも、思えば特撮で皆が善意に基づいて活動し職務を励行するのは当たり前の事。その意味でこの作品は特撮に忠実なのだ。ただ余りにリアルなゴジラ対応と、余りにアンリアルなゴジラ対応の実践が交わり、不思議な感覚になる。

 

ゴジラが現れた時の対応マニュアルとしては「とてつもなくリアル」

実際にそれを運用したであろう時の対応としては「びっくりするほどアンリアル」

それが交わって、すっごい不思議な感じ

 

ここまで整理すると、こんな感じだ。

 

③すごいリアルな「日本」映画

 

またかぎかっこを変えた。これは何を考えているかというと、国と個人を対置した。

もっとわかりやすく書き残せば「登場人物の個性も人間ドラマも全くない映画」と言いたい。

 

すでに整理したようにびっくりするくらいの現実への驚く程のベストな対応の最中で、主人公が「まだまだこの国は頑張れる、そう思えるよ」と言うシーンがある。

 

「お前は一体何を言っているんだ?」というのが正直な感想だった。というか「お前、そんな事言う人間なの?」→「そもそもどういう人間かわからない」と変遷した。

 

主人公は権力欲があり、敵味方に勢力を塗り分ける決断力と鼻の良さ、ゴジラという事態に対処する才覚と機転を持ち、かつ健全な危機感の元日本の未来を案じる事の出来る士気軒高たる働き盛りの少壮男性と、これ以上望むべくもない政治家タイプの人間だ。

 

だが、例えば『半沢直樹』のように、「無慈悲な資金回収により銀行を恨みながら自殺を遂げた父を持ちながらも銀行に勤める」といった主人公の個人的な人間ドラマはない。皆無と言っていい。

 

むしろそうしたいがために登場人物全員を公務員にしたと思える程に無い。勿論、ユニークなキャラやどじっこ、ミステリアスな博士も居るには居る。だが例えば主人公級のキャラのゴジラ対策本部での恋愛も無ければ激しい、ライバルとのぶつかり合いや心の成長も、石原さとみのキスシーンや石原さとみが水着になるシーンも石原さとみの服ががれきで敗れたり石原さとみの頬が汚れたり石原さとみの髪の毛が乱れて胸にかかるといったシーンもない。とにかくないのだ。禁欲的と言っていいほどに無い。何のために石原さとみを出しているのか小一時間程問い詰めたい程に無いのだ。この点だけはマイナスだ。なら最初から石原さとみを出さないでくれ。

 

脱線した。つまりここには個人が居ない。全体として、総体として、よく言えばチーム「日本」抜群のチームワークの一要素。悪く言えば悍ましい程に(傍目にはゴジラ等いない世界に居るかのように)平凡な日常のように業務をこなす人間が居るのだ。もっとわかりやすく言えば、ここまで絶望的な状況の中で個人のエゴも出さずに、家族に電話の一本も入れずに、自分の頑張る理由も明らかにせずに戦い続ける主人公の頑張る理由が全くわからないのだ。はっきり言う。こいつは人間じゃない。

 

①リアルなゴジラ対応の中で

②チーム「日本」はアンリアルなまでに完璧な対応をする

③だが主人公達の個性は決定的に欠落している

 

――だからこれはまさしく、すごいリアルな「日本」映画だと思う。

 

だって、日本しか映していないのだから。

 

④すごいリアルな日本「映画」

最後は少々こじつけだ。では、何が映されているのか。此処からは僕のマジで書き残しになるけど、このゴジラは「とてつもなく心地の良いフラットな空間が映された映画」という事だ。

 

どういう事かと言うと、僕は

「もし今この教室に悪人がやってきたら完璧に対応できるのは今それを想定している僕だけだなデュフヘ」

なんて妄想を学生の頃良くした。

それと同じ事が良く出来ると思うのだ。

 

舞台は整っている。ゴジラが現れた。周囲の皆は完璧な対応をしている。だが邪魔になる個性の強い主人公達は居ない。

 

さあ、存分に世界に浸ってくれ。君ならどうする? まずはゴジラに畏怖してくれ。この恐ろしさの中で、どうする事も出来ない中で君ならどうする? 完璧な対応をする日本と自分を重ねて上から眺め下ろして悦に浸るか? それともその中の一員として努力し喜びを分かち合うか? 何大丈夫。君がどうすればいいかはきっちり模範解答がある。だがifとして周囲が対応失敗した中でヒーローになるのも良いだろう……

 

なんだこんな事か。なんて思うかもしれない。でも僕たちは初めのゴジラのように始めて見るゴジラとは出会えないし、子供のあのころのように特撮に手に汗握る事もデュフヘな妄想をする事も、もっと言えば街の角でパンを咥えた女の子とぶつかる事も転校生の王子様の秘密を知る事も、イケメン達が切磋琢磨しても奇蹟は起きないともう知ってしまっている。そもそも日本の特撮ってすたれ気味だし皆お金ないし……

 

その中で特撮として、映画を思い切り楽しんでもらうには、この三段構えで舞台を整え、どっぷり浸かってもらうしか方法が無かったのではないか。ゴジラであっても、「すごくリアルな日本映画」として見せなければ魅力は無かったのではないか。そう思えるのだ。これが仮に『ゴジラ Final wars』のような「皆知ってる特撮ゴジラ」の総決算では、ここまで面白い作品は作れなかったと思う。皆、飽きているから。

 

「すごくリアルな日本映画」の地平で、ゴジラと初めて真正面から向き合い、恐怖し、楽しめるのだ。

 

そう考えれば、ラストシーンの意味は色々取れる。ゴジラに不感症な貴方達は他の事にも不感症ね。や、僕らは現実では上手く行かなかったが、ゴジラならなんとか鎮められたんじゃないか。次はきっと上手く行くさ、なんて。

 

だがとにかく――この国にゴジラはまだ居るのだ。初めから見向きもしなくなったか、もしくは延々見せられたあげくに絶えられなくて飽いてしまったけれど、すごくリアルな日本の中に、今も眠っている。


伊福部昭 - ゴジラ (1954)

その事を思い出せただけでも、満足だった。

 

(人間ドラマらしきものが、石原さとみ演じるキャラには僅かにある。というかアメリカの面々にはある。そんな気はしたので、もう少し考えたいけど、今日はもういいや)

 

 

 

 

 

 

『血翼王亡命譚――祈刀のアルナ――』を読んだ

久々に更新。これでも徐々にペースが上がっているのです。後、下読でお預かりしたのもちょっとずつ読んでる。

 

 “私は駄目な王女だからね。自分のために命を使いたいの”耀天祭の終わり、赤燕の国の第一王女が失踪した―。だが、それは嘘だと俺は知っている。太陽を祀る五日間、彼女は王族の在り方に抗い、その想いを尽くしただけ…。突如国を追われた王女アルナリス、刀を振るうしか能のない幼馴染みの護衛ユウファ、猫の血を秘めた放浪娘イルナに人語を解する燕のスゥと軍犬のベオル。森と獣に彩られた「赤燕の国」を、奇妙な顔ぶれで旅することになった一行。予期せぬ策謀と逃走の果て、国を揺るがす真実を目にした時、彼らが胸に宿した祈りとは―。これは歴史の影に消えた、儚き恋の亡命譚。第22回電撃小説大賞“銀賞”受賞作!

 

との事。

久しぶりにファンタジーを読みましたが、ファンタジーはやっぱりどれだけ描写が上手いか、世界観作れるかが面白いファンタジーを描くコツなんだなぁと思いました。

 

この作品のファンタジーのキモは「言葉」です。あらすじだけではわかりませんが、この世界の登場人物たちは言葉に対し皆それぞれの距離があり、それがキャラクターを形作っていました。

 

聖なる唄を歌うため言葉を話す事を禁じられた王女

言葉に宿る力(言血=他種族の能力)を遣い護衛を務める主人公

父の言葉(願い)に縛られたネコ耳少女

 

等々。ギミックも

 

言血(他種族の言葉=血。その種族の力を借り受ける事が出来る)や

王歌(王族だけが歌える唄。傷をいやしたり建築したりと、色んな事が出来る)

と色々。そもそも生命の誕生が「言血の塊に歌を聞かせる」事によって誕生するという世界観で、徹底しています。後、作者は物を描写する際に三つの言葉を連ねて書くのが好きみたいです(濡れた若草色の髪、清流を思う透き通った肌、微かに薫る白桃の匂い、みたいな)

 

ファンタジーとは新しく世界観を創り上げるわけですから、世界を上手く創り上げた後は上手く説明する必要があるわけです。この点この作品はとても良く出来ており、テーマとキャラクター達の魅力が良く伝わってくる面白い作品でした。

 

ただ、なぜか僕は「これ、佐々木小次郎の燕返しから着想得たんじゃないのか……?」とか思いました。絶対に違うと思いますけど。読んでみるとなんとなく伝わるかも。

 

では。

『帰ってきたヒトラー』を読んだ

あまりに休眠させておくてエターナルので、自分の精神衛生のために更新しよう。

 

帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)

帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)

 

 ヒトラーが突如、現代に甦った!周囲の人々が彼をヒトラーそっくりの芸人だと思い込んだことから勘違いが勘違いを呼び、本当のコメディンにさせられていく。その危険な笑いで本国ドイツに賛否両論を巻き起こした問題作。本国で二五〇万部を売り上げ、映画は二四〇万人動員、世界四二言語に翻訳された空前のベストセラー小説の待望の文庫化。著者による原注付き。

 

との事。映画化も近い&文庫化という事で、気になっていたし読みました。風刺小説という事でよろしいでしょうか。

ドイツではナチスやナチズムを語る事はとてもセンシティブであり(当たり前か)、特にヒトラーについては教条主義的に反対を表明させるような教育がなされているそうです(巻末の解説より)。そんな中、ヒトラーがタイムスリップしてきたらどう動き、私たちはどう反応するのか? というのが作品のメインプロット。

 

ポイントは何より、この作品のヒトラーは「人間として魅力的である」という事。正直で、理想に燃え、躊躇う事なく意見を表明し、目標にまい進し、時に失敗から学ぶ。とても人間として魅力な存在として描かれています。

 

ヒトラーを笑っているつもりが、ヒトラーと笑っている」というのが小説の一つのテーマであるそうで、確かに現代の社会問題に立ち向かう(但し、とても恐ろしい意見と共に)ヒトラーの姿勢は愉快痛快。ヒトラーのように「誠実に」物事をズッパズッパと切っていけるなら苦労しないのになぁ、とか考えてしまいます。そしてこの考えが、恐ろしい物を呼び寄せる一つの原因なのだとも。

 

また、最後の一文が恐ろしい。ヒトラー(及び、ヒトラーのやり方)が現代の人々の理性によってはねつけられるわけでもなく、勿論世界を征服するわけでもなく、営々と生き続ける。

拒絶反応を示し続けて忘れる事を選んでしまえばいずれまた復活してしまうし、かといってつぶさに考える事はいつの間にか飲み込まれてしまうのではないか。

恐らく、拒絶するには不断の努力が求められるのでしょう。人間の歴史は争っていた方が長く、それが普通というのであれば、なおさら。

それを象徴するような一文でした。

 

言葉遊びやユーモアに満ちており、面白かったです。映画も見たいと思います。

 


映画『帰ってきたヒトラー』予告編

『サクラ×サク 02 ボクノ願イ叶ヱ給ヘ』を読んだ

締め切りが近いですが、満員電車では小さな文庫本を読むほかない感じですね。

 

 サクラの兄(デュラン)、妹(ナズナ)。最強の魔性(ブラッド)持ち登場(デビュー)!! “君は僕の黒い太陽(ブラック・ホール・サン)” 拘束されたハイジの魔性(ブラッド)をそう名付けたのは突然現れたサクラの兄デュラン。その魔性(ブラッド)のおかげで転属となり、サクラと離ればなれにさせられ、それでもハイジの日々は飛ぶように過ぎてゆく。 一方、ファウラス城市攻略を命じられたサクラの下に増援として派遣されたのは、サクラの妹、ナズナ率いる七六旅団。帝国の防衛網を切り裂きながら進む第八公軍を待ち受けるのは神算鬼謀の亞璃簾(ありす)。はたしてファウラス城市を陥とすことができるのか!? 血が滾(たぎ)って色々躍る大戦詩幻想交響曲(ファンタジックウォーシンフォニー)、待望の二巻!

 

との事。主人公ハイジさん、自己評価はとても低いですが、滅茶苦茶有能です。

愛しのヒロインと離れ離れにさせられるも雑用偵察戦闘と何でもこなします。この有能っぷり、分けて欲しいくらいw 自分で仕事を見つけるって所に、社会人になってしまった僕は越えられない壁を感じてしまいましたね……

相変わらず地の分は苦悩というか愚痴と言うか、等身大の主人公なので、自分の能力も相まった急激な成長に主人公自身ついて行けない感じがしてます。どうなるんだろう。

 

後新キャラのサクラの妹ナズナさんが生意気ですが能力が面白すぎて笑いました。いや、能力をかけられた奴が面白いのか? とにかく、良いキャラしてます。戦争だからか何人もキャラが出てきますが個性が強くて皆面白い。

 

ヒロインのサクラは相変わらず孤独感を抱えているようですが、幸せになっていって欲しいヒロインです。ヤマアラシのジレンマはやっぱり愛おしい。ベタベタですが、それが良い。ベタで何がわるい。そんな二巻だった。

 

前の巻の感想は下。

 

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ではー

『さくら荘のペットな彼女』を読んだ

気を抜くと一か月くらい更新しないですね。本を読んだ感想を残さないのは大丈夫だろうかと気にしてしまいます。

 

さくら荘のペットな彼女 (電撃文庫)

さくら荘のペットな彼女 (電撃文庫)

 

 俺の住む寮『さくら荘』は、学園の変人たちの集まり。そんな寮に転校早々入ってきた椎名ましろは、可愛くて清楚で、しかも世界的に有名な天才画家だという。天才美少女を寮の変人たちから守らねば!と意気込む俺だったが、入寮翌日恐るべき事実が発覚する。ましろは、外に出れば必ず道に迷い、部屋はめちゃくちゃ、ぱんつすら自分で選べないし、穿けない、生活破綻少女だったのだ!そんなましろの“飼い主”に任命された俺。って、服とか俺が着替えさせるの!?これでも俺、健全な男子高校生なんですけど!?変態と天才と凡人が織りなす、青春学園ブコメディ登場。

 

との事。

有名な作品で、今は青春ブタ野郎を書いている作者さんの作品です。ブタ野郎と同じく、テンポ良くお話が進んでいきますね。ましろが可愛いというよりすごい。天才過ぎてついて行けないです。凡人の空太にすごい共感します。文字通りヒロインの飼い主になるんですが、ペットな彼女がとても天才なので、飼い主である主人公空太が成長していきます。

今回のテーマって嫉妬だと思うのですが、嫉妬っていうと高校生の時も感じていたし社会人になった今も感じているし、多分死ぬまでいろんな物に嫉妬しながら生きていくのだろうなぁと思います。

そんな嫉妬を強く感じながらも一生懸命に走り出そうとする主人公がかっこよ……くなる前に一巻が終わってしまったけど、多分次の巻からかっこよくなるのでしょう。ワナビの自分にとっては空太の心境ってすごい強く共感できてしまって、やる気が出ました。次の巻も読みたいと思います。面白かった。ななみん? は次から出てくるのだろうか。ちら見せだったけど絶対可愛いと思う。

 

ではー

「ゲーマーズ! (2) 天道花憐と不意打ちハッピーエンド」を読んだ

日々が流れるように過ぎて、最近花粉が辛い。

 

 美少女からのゲーム部勧誘を拒否し、相性抜群のゲーマー少女とは大喧嘩をかます―もはや完全に自業自得なぼっち高校生、雨野景太。そんな雨野と学園のアイドル、天道花憐をくっつけるため、ゲーム同好会を発足したリア充、上原だったが、なぜか自分のカノジョに浮気を疑われ!?一方、天道は雨野のことが気になりすぎて原因不明の胸の痛みを発症中。そして唐突に開催される“総合テレビゲーム大会”。科学と魔術こそ交差しないものの、遂にラノベ的な異能は覚醒する!!…主人公以外の人物の中で!こじらせゲーマーたちによるすれ違い、未だ猛加速中!

前の巻の記事は下。

 

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との事。引き続き、ハチャメチャラブコメディとキャラ達の迷走っぷり。良いですね。「おいおいこんな展開あるわけねぇよ……」が永遠に続くんですが、ここまで来ると、普通に何も起こらないと「どうしたんだ?」ってなるから面白い。これぞラノベって感じ。ラノベなんだからあり得ない事バンバンかましてイチャイチャしてくれると気持ちいいっす。後アグリと雨野君の会話は笑えます。どうしてそうなっちゃうのって感じ。

付き合ってるはずなのにアグリと上原君は気まずいし。上原君にはぜひ幸せになってほしい。

後平凡平凡行ってますが、雨野君も十分にラノベ主人公だよな……!

 

アニメとかにするととても映えそう。三角君のラノベ的異能ネタは完全にもう突っ走りすぎて、彼はもう完結編にまで行きました。ボナパルトには笑った。ここから絡んできたりするのかな? そうなるともういよいよ処理しきれないほど関係性が増えて滅茶苦茶になるんでしょうけど……w

このまま突っ走って欲しいです

 

ではー

 

「いなくなれ、群青」を読んだ

年度末が近づいてきても、中々暖かくならないですね。

 

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

 

 11月19日午前6時42分、僕は彼女に再会した。誰よりも真っ直ぐで、正しく、凛々しい少女、真辺由宇。あるはずのない出会いは、安定していた僕の高校生活を一変させる。奇妙な島。連続落書き事件。そこに秘められた謎…。僕はどうして、ここにいるのか。彼女はなぜ、ここに来たのか。やがて明かされる真相は、僕らの青春に残酷な現実を突きつける。「階段島」シリーズ、開幕。

 

との事。これが話題になったのは一年と半年前。

でも僕の所に届いたのは今で。だがそういう事は往々にあることだ。

手紙は時に届かない、その可能性こそが手紙が手紙である証明になるのだから。

 

若々しい感性とか瑞々しい感性で書かれた、という表現はしないでおこう。詩的な文章、そんな単語が僕に近づいてきたけれど、「この小説の文章は詩的である」という文章が僕には詩に対して不敬な程に詩的に感じられなかった。だからこれもしない。

 

――いや、疲れたので平常運転で記録を残します。

 

階段島は現実感と非現実感が奇妙に同居した舞台で、その表現はとてもよく伝わってきました。どこから来るのかわからないが、なぜか送電される電気。どうやって来るのかわからないが、届くアマゾン、そして食糧。タクシーは走っているが町は小さく、かっこたる物として学校がそびえ、島の頂上には全てを支配する魔女が居る――

 

なんだか、納得出来ない設定です。

 

けれども、これは裏返すと青春を過ごす主人公達の世界認識その物だと思います。電気の大切さがわからない程幼くはない、だが電気がどこから来るのかは興味がない。アマゾンが無いとかなり困るヘビーユーザー、でもどの倉庫から来るかなんてどうでもいい。食べ物は大事。そして一番の問題はそれが美味しいのかどうか、安いのかどうか。友達と食べやすいかどうか。どこから来るかは、どうでも良いでしょう。

 

納得できない物と納得できる物がねじくれて同居するのが青春であり、納得できない事を感じる感覚が摩滅していくのが大人になる事であり、摩滅との言葉が嫌ならば「感性が磨かれていく」と表現しても良い。すり減るも磨き上げるも畢竟同じなのです。

 

つまり設定として、階段島は島そのものが青春の世界認識その物だと読みました。青春という中途半端で激烈な時間その物を切り取ったような舞台であり、その意味でのみ、この作品は詩的なのでしょう。

 

 

ミステリ、という言葉にどんでん返しやあっと驚くトリックを期待するのはお勧めしません。設定は見事であり、奇妙な友人、まさに青春でしか出会えないような少女と少年の物語でございました。

 

 

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

 

 ほんと関係ないんだけど、伊坂幸太郎のオーデュボンの祈りが頭によぎった作品でした。こっちも面白いです。