「すごくリアルな日本映画」――『シン・ゴジラ』を観た
いつぞや。アメリカ版の「ゴズィラ」を観た時にも感想を更新していた。
この時は色々あったが、要約すると「godzillaは第一作のゴジラの系統」であり、どういう事かというと「人間の身勝手で産み出された厄災」であり、「どうする事も出来な超常的なパワーで僕らを破壊しまくる」というゴジラの姿だ。そして質感の良さとか3Dの良さ、後は引き起こされる津波のシーンから「とてもリアルだった」と感想している。
で、今作。
今作はどうかというと……面白かった! 二回観たし、多分三回目も観そうである!
まず音楽が良い! ゴジラ伝統の音楽をふんだんに使っている。下手に新しいのは遣わなくてもあの重いサウンドを腹に叩き込んでくれれば心はぴょんぴょん不可避で何も問題がない! 後プラスで遣われた音楽はエヴァっぽいが、というかゴジラがエヴァっぽいというかエヴァがゴジラっぽいというか、セカイ系とはかけ離れているが「自分にはどうしようすっげぇやっべぇのが来た」時のやっべぇ存在なんだから似通ってもいいじゃん。新幹線&在来線の皆、恨みが晴らせてよかったな!
そしてゴジラのフォルム。不気味で愛嬌がありデカくて強くて神秘的と、言う事がありません!
俳優! 超豪華! 石原さとみが真顔でルー大柴みたいな感じで喋ってる! これだけでご飯おかわり! 実はルー大柴すごいんだ! 大柴は出てないけど前田敦子がちょい役で出てたり塚本監督が生物学者になってたり原一男監督が御用学者になってる! 演技ぃ! おっさん俳優集合させすぎかよどうなってんだ皆かっこいいぞ! とか、豪華すぎてよくわからないくらい豪華すぎました。
彼らがめっちゃがんばってゴジラと戦うんですよ燃えるでしょこれ……
台詞回しも(総理大臣が「どうするんだよ記者会見で言っちゃったぞ?」とか笑うし、余りに甘利大臣に似た俳優が「ちょっと想定外すぎるなコイツは……」と言うともう吹きだす)とても良いし、映像はド迫力で自衛隊のドンパチは全く躊躇いがないし、ゴジラの放射熱戦は美しいと言っていいほどの映像美だし、カメラワークも逃げる人々の混乱っぷりが良く伝わって来て手に汗握る感じでした! 面白かった!
……と書き連ねていくと(心はぴょんぴょんするが)あんまり意味がないし、僕の書きたい欲も満たされないので如何に少しまとまって残しておきたい。
面白かった、の後の感想は、
「ゴジラだ……それに、すごいリアルな日本映画だな」と考えた。
どういう事か。つらつら書きたい。
①すごい「リアル」な日本映画
かぎかっこの位置を変えてみた。どういう事かというと、「もしゴジラが現れたら皆どうするんだろうなぁ」というのを可能な限り地面に張り付いて描いていると思ったのだ。
ストーリーとしては何のことはない(ゴジラ映画的な意味で)。ゴジラが海の向こうから現れ、日本を踏みつぶしまくり、なんとかかんとかがんばって、ゴジラに御鎮まりいただく映画だ。
そして主人公は政治家と官僚、公務員達である。ゴジラ特別対策本部的な面々の頑張りを描くのだ。
特徴的なのは次だ。まず冒頭にゴジラが現れる。すると、延々政府の会議のシーンが映されていく。「あの水蒸気爆発の原因は」「海底火山」「原子潜水艦が爆発」「未知の生物が」なんてのを延々と繰り返し、官僚と政治家、内閣の面々がああでもないこうでもない、「法律では自衛隊を東京湾に出動させるのはどうやればいいのか」、「経済的損失は」、「羽田は封鎖されているんだぞ早くなんとかしろ」、「想定外なんだから仕方がないじゃないか」
とテンパりながらも恐らく実際にゴジラが現れたら必要になるだろうと思われる形式的な会議やなんやをしつこく描いていくのだ。
それでもカメラワークや配役、何よりもリズム感によって失速感を得ずに面白く作っているのはチームの力だろう。
この後も「いざ自衛隊がゴジラと戦うならどこで守って何の武器を遣って、誰が決めて誰の裁可をどういう承認ルートで貰うのか」「東京の災害対策室がゴジラが現れたらどのように指揮を執るのか」「官邸がぶっつぶされたならどこに避難してどういう臨時内閣が組織されるのか」「U.S.Aが圧力をかけて来たのならどういうルートでどこの省庁にまず圧力がかかり、受け取った政府は誰がどうするか」なんていうのが延々、本当に延々繰り返される。
こう纏めると奇態に映るかもしれないが、「ゴジラが現れたならどうするのか徹底密着24時」的な側面がとても強いのだ。そして対応を生々しく描くことで、その対象であるゴジラその物がリアル浮かび上がる。その意味でとてつもない緊張感とワクワクが味わえる作品になっていた。
つまりこの映画は、特撮だが妥協(スーパー戦隊でレッドが大活躍して危機を乗り越える的な、良い意味での妥協)が無い、とてつもなく「リアル」な映画だ。
②「すごい」リアルな日本映画
かぎかっこを変える。上でまとめたように、この映画はとてもつもなくリアルな「ゴジラ対日本」だ。そして強調したいのは「この映画の日本の対応はほぼパーフェクトに近い」という事である。
今作のゴジラは体長は百メートルのK点越え、機関銃もミサイルも大砲もイージスの巡航ミサイルも、対地中ミサイルも、なんならデイジーカッターも核すら効きそうにない相手だ。そして熱光線の威力はシリーズ随一を誇るヤバさ。
何をどう頑張っても無理なのである。
だが、主人公並びに日本政府の面々は断固諦めない。誰一人「も、もう無理だうわああああん!」とか言い出さないし「ワイはマッマの元に帰るんやで。最期は親孝行や」みたいな事を言い出すなんJ民も居ない。各々が各々の持ち場職場職務を粘り強く全力でこなしていくのだ。
〈理想的な、あまりに理想的な〉――「すごい」奴らが頑張るリアルな日本映画を描いた作品だ。その点で、この作品は大震災や経済危機その他諸々の難所で時の政権与野党問わず醜態を晒し続けた泣きたいような現実とはあまりにかい離しているとは言える。
フィクションだがリアルを獲得したこの映画と組み合わせると、少し面映ゆくなる感すらある映画だ。
*この点を取り上げ「政権賛歌だ!」なんて感想も見えたが、仕方ないだろう。事実ゴジラが現れたら対応するのは政府だろうし、わかりやすい敵と危機を前にすると団結の必要性を感じて政府の支持率は上がる物だ。そういった所もリアルに描いたというのが正しいと思う。
でも、思えば特撮で皆が善意に基づいて活動し職務を励行するのは当たり前の事。その意味でこの作品は特撮に忠実なのだ。ただ余りにリアルなゴジラ対応と、余りにアンリアルなゴジラ対応の実践が交わり、不思議な感覚になる。
ゴジラが現れた時の対応マニュアルとしては「とてつもなくリアル」
実際にそれを運用したであろう時の対応としては「びっくりするほどアンリアル」
それが交わって、すっごい不思議な感じ
ここまで整理すると、こんな感じだ。
③すごいリアルな「日本」映画
またかぎかっこを変えた。これは何を考えているかというと、国と個人を対置した。
もっとわかりやすく書き残せば「登場人物の個性も人間ドラマも全くない映画」と言いたい。
すでに整理したようにびっくりするくらいの現実への驚く程のベストな対応の最中で、主人公が「まだまだこの国は頑張れる、そう思えるよ」と言うシーンがある。
「お前は一体何を言っているんだ?」というのが正直な感想だった。というか「お前、そんな事言う人間なの?」→「そもそもどういう人間かわからない」と変遷した。
主人公は権力欲があり、敵味方に勢力を塗り分ける決断力と鼻の良さ、ゴジラという事態に対処する才覚と機転を持ち、かつ健全な危機感の元日本の未来を案じる事の出来る士気軒高たる働き盛りの少壮男性と、これ以上望むべくもない政治家タイプの人間だ。
だが、例えば『半沢直樹』のように、「無慈悲な資金回収により銀行を恨みながら自殺を遂げた父を持ちながらも銀行に勤める」といった主人公の個人的な人間ドラマはない。皆無と言っていい。
むしろそうしたいがために登場人物全員を公務員にしたと思える程に無い。勿論、ユニークなキャラやどじっこ、ミステリアスな博士も居るには居る。だが例えば主人公級のキャラのゴジラ対策本部での恋愛も無ければ激しい、ライバルとのぶつかり合いや心の成長も、石原さとみのキスシーンや石原さとみが水着になるシーンも石原さとみの服ががれきで敗れたり石原さとみの頬が汚れたり石原さとみの髪の毛が乱れて胸にかかるといったシーンもない。とにかくないのだ。禁欲的と言っていいほどに無い。何のために石原さとみを出しているのか小一時間程問い詰めたい程に無いのだ。この点だけはマイナスだ。なら最初から石原さとみを出さないでくれ。
脱線した。つまりここには個人が居ない。全体として、総体として、よく言えばチーム「日本」抜群のチームワークの一要素。悪く言えば悍ましい程に(傍目にはゴジラ等いない世界に居るかのように)平凡な日常のように業務をこなす人間が居るのだ。もっとわかりやすく言えば、ここまで絶望的な状況の中で個人のエゴも出さずに、家族に電話の一本も入れずに、自分の頑張る理由も明らかにせずに戦い続ける主人公の頑張る理由が全くわからないのだ。はっきり言う。こいつは人間じゃない。
①リアルなゴジラ対応の中で
②チーム「日本」はアンリアルなまでに完璧な対応をする
③だが主人公達の個性は決定的に欠落している
――だからこれはまさしく、すごいリアルな「日本」映画だと思う。
だって、日本しか映していないのだから。
④すごいリアルな日本「映画」
最後は少々こじつけだ。では、何が映されているのか。此処からは僕のマジで書き残しになるけど、このゴジラは「とてつもなく心地の良いフラットな空間が映された映画」という事だ。
どういう事かと言うと、僕は
「もし今この教室に悪人がやってきたら完璧に対応できるのは今それを想定している僕だけだなデュフヘ」
なんて妄想を学生の頃良くした。
それと同じ事が良く出来ると思うのだ。
舞台は整っている。ゴジラが現れた。周囲の皆は完璧な対応をしている。だが邪魔になる個性の強い主人公達は居ない。
さあ、存分に世界に浸ってくれ。君ならどうする? まずはゴジラに畏怖してくれ。この恐ろしさの中で、どうする事も出来ない中で君ならどうする? 完璧な対応をする日本と自分を重ねて上から眺め下ろして悦に浸るか? それともその中の一員として努力し喜びを分かち合うか? 何大丈夫。君がどうすればいいかはきっちり模範解答がある。だがifとして周囲が対応失敗した中でヒーローになるのも良いだろう……
なんだこんな事か。なんて思うかもしれない。でも僕たちは初めのゴジラのように始めて見るゴジラとは出会えないし、子供のあのころのように特撮に手に汗握る事もデュフヘな妄想をする事も、もっと言えば街の角でパンを咥えた女の子とぶつかる事も転校生の王子様の秘密を知る事も、イケメン達が切磋琢磨しても奇蹟は起きないともう知ってしまっている。そもそも日本の特撮ってすたれ気味だし皆お金ないし……
その中で特撮として、映画を思い切り楽しんでもらうには、この三段構えで舞台を整え、どっぷり浸かってもらうしか方法が無かったのではないか。ゴジラであっても、「すごくリアルな日本映画」として見せなければ魅力は無かったのではないか。そう思えるのだ。これが仮に『ゴジラ Final wars』のような「皆知ってる特撮ゴジラ」の総決算では、ここまで面白い作品は作れなかったと思う。皆、飽きているから。
「すごくリアルな日本映画」の地平で、ゴジラと初めて真正面から向き合い、恐怖し、楽しめるのだ。
そう考えれば、ラストシーンの意味は色々取れる。ゴジラに不感症な貴方達は他の事にも不感症ね。や、僕らは現実では上手く行かなかったが、ゴジラならなんとか鎮められたんじゃないか。次はきっと上手く行くさ、なんて。
だがとにかく――この国にゴジラはまだ居るのだ。初めから見向きもしなくなったか、もしくは延々見せられたあげくに絶えられなくて飽いてしまったけれど、すごくリアルな日本の中に、今も眠っている。
その事を思い出せただけでも、満足だった。
(人間ドラマらしきものが、石原さとみ演じるキャラには僅かにある。というかアメリカの面々にはある。そんな気はしたので、もう少し考えたいけど、今日はもういいや)