「ハンナ・アーレント」
ちょっと静かなのを観ました。彼女の本は一冊も一度も読んだことがありません。
一度は読んでおきたいと思っていたけど、読む前に観ました。
彼女がアイヒマン裁判を傍聴し、それについての論文、「イェルサレムのアイヒマン」という文章を書く前後を描いています。彼女の人生の回想と文章を書く前後の友人たちの態度の変容、それと戦う彼女。全体的に、画としては静かな物でした。
- 作者: ハンナ・アーレント,大久保和郎
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1969/02/20
- メディア: 単行本
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映画で観ると、どうやらこの本はホロコーストにてユダヤ人を殺害した行いの一端を担っていたアイヒマンの裁判を傍聴する内に、上から任命される事で事の善悪の判断を「停止」し、「思考する事をやめてしまった=人間である事をやめてしまった」彼のあまりの「凡庸さ」に衝撃を受け、普通の人間が殺人鬼になりえる、という報告を行ったそうです。「悪=野獣が行うデモニッシュ(悪魔的)な行い」ではなく、「悪=凡人が行う普通の行い」であると。
また、調査を続ける内、当時のユダヤ人の指導者たちの在り方が異なっていれば、これほど多くのユダヤ人が殺される事はなかったのではないかと述べています。
当然の事ながらこれはユダヤ人の激しいバッシングを受け、彼女は批判の嵐に晒されます。象徴的なシーンとして、映画の最後、大学講堂での反論が心に残りました。
映画のクライマックス、コンサートホールの要に声が響く扇状の大講堂で、階段上に配置された席に着く多くの学生や彼女を批判する、嫌う者を前に批判についての反論をします。
批判の内容ではなく、その構図がとても印象的でした。気付かされたのですが、大講堂はオペラハウスのように多くの観客が発言者を取り囲み、上から無言で眺め下ろすという作りになっています。それは当然の事なのですが、居並ぶ聴衆たちは声を潜め、静かに彼女の発言に聞き入っています。聴衆達は彼女がだれかわかっている、彼女は聴衆の全てを知っているわけではない、ただ、聞き耳をたてられている。無言で見つめられている。
もし不意にここで彼女が何か間違っていると思われる発言をすれば、途端に非難の嵐に晒されます。それはほとんどの場合一方的であり、聴衆は困った事になってもすぐに隠れる事が出来る。
なぜだか無性に怖くなりました。これが、恐らく「凡庸な悪」の芽の一つなのだろうと思ったのです。私もあの場に居れば、簡単にその悪を行使する可能性がある、一対一では出来ないような事も、「空気」や「構図」があれば簡単にできてしまうかもしれない。例えユダヤ人とユダヤ人であっても、彼らを追いつめた凡庸な悪の行使者になる可能性がある。
ハイデガーとの恋愛、友人の離婚と再婚話、夫とのやりとりから伝わってくる彼女自身の「凡庸さ」と、「冷徹非情の女」とバッシングを受ける彼女の作られた「異質さ」に晒される彼女。
疲れ果てた彼女がベッドで横になり、一人タバコをふかすラストがとても印象的で、寂しく愛おしい作品でした。
なんか書き口変になってしまった。なんでだろー