盗んで、壊されて、演じて――『万引き家族』を観た
今日はなぜか会社が休みだったので、観ました(自主的な休暇の類ではない)
高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝の年金だ。足りない生活費は、万引きで稼いでいた。社会という海の底を這うような家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、互いに口は悪いが仲よく暮らしていた。 冬のある日、近隣の団地の廊下で震えていた幼い女の子を、見かねた治が家に連れ帰る。体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、信代は娘として育てることにする。だが、ある事件をきっかけに家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれが抱える秘密と切なる願いが次々と明らかになっていく──。
との事。
初めに言っておくととっても面白かったです。(覚えたての色文字と大文字)
映画の感想を語る言葉をあんまり持ってないのが辛い。
ずっと観ていたくなる映画だった。
フィルムの中に流れる暖かさがとても良かったです。
煽り文にある「盗んだのは、絆でした」の通り、絆がテーマだと思います。
1.つつましやかで暖かな家族
貧乏だけど暖かく清らかで、やむなく万引きをしている家族が描かれているわけではありませんでした。
ポスターにもある感じでにこやかに万引いちゃいます。
でも彼らは人並みよりちょっとクソか、まあ人並みくらいのクソ人間たちです。決して世間から指弾される人ではない。ごくごく普通の人たち。
でも、どこかで歯車が狂った、歯車を落とした人たちが集まっていました。
2.皆演じている。
そんな彼ら、ストーリーをさらりと読むと、夫婦と息子、妻の妹の四人が老婆の年金目当てに家に転がり込んでいる感じですがそれどころじゃない。終盤で明らかになった彼らの素性を知ると「うわぁ……救いようがねぇ……」となる事請け合い。「よくぞまあテメェら一つ屋根の下におったな」となる事必至。どうしてこうなった。
皆、一つ屋根の下で家族を演じているのです。「血のつながり」や結婚式で語れそうな「これまでのストーリー」のある「本当の家族」からかけ離れた家族が描かれています。
誰かが片肘を張っているわけじゃないけれど、むしろ全然演じていないのだけれど、演じている。全員演じていないはずなのに、全員が演じている。
演じる事によって、上っ面を整える事で、彼らは絆を手に入れていました。
4.拾われたりんちゃん
そんな彼らの家族の中に、りんちゃん(佐々木みゆ)が現れます。りんちゃんは虐待されていて、それを目撃し心配した治が連れ帰るのです。
りんちゃんは5才。本当だったら幼稚園でのイベントに胸を膨らませているのかもしれませんが、虐待のため心を深く閉ざしています。
クソ野郎の集まりである一家ですが、人並みの情は持ち合わせています。おかしを与え(万引きで)、麩の煮物を与え(万引きした麩)、服を(万引きして)新調し夏に向け水着も準備してあげます(当然、万引き)。全部万引きで揃えてるなこいつら……
始めて虐待をされない環境に置かれて、徐々にりんちゃんは心を開いていきます。
心を開いていくのです。
僕はここで「この映画すごいなぁ」と思いました。
4.家族=演劇
一端立ち止まって考えると、家族ってほとんど演劇じゃないですか?
特に子供相手には、皆大げさにリアクションしたり、物事をでっかく語りますよね?(悪い事したらバチがあたるよ! とか)
パパ役やママ役の人たちはそのロールを任され、必死に演じて、おじいちゃんもおばあちゃんもそれとなく助演しますよね。
でも、その家族の中に演じない人たちがいる。
それが子供です。当たり前ですよね。5才に演じる事なんか無理です。
演じている人と演じていない人が混ざっている空間、それが家族。
そんな中で虐待される子供とは「望まれたロールをこなせなかった役者」です。
親の望んだ子供像を叶えられないがために虐待を受ける。本来、役者にはなれないのに。
それが劇中の信代の台詞にも表れています。
――あなたの事が好きだから殴る、なんつーのは嘘だからね。
虐待される子供とは、本来無理な役を強いられている子供なのだと感じました。
(セリフはうろ覚え)
5.りんちゃんは必死に演じようとして、祥太は演じる事に疑問を持った
戻ります。 りんちゃんは心を開いていきます。つまり、新しい役割を演じるのです。
万引きを手伝うようになる。万引きがこの家族に求められる一番大事な役割だからです。
でもりんちゃんを見て、祥太はその役割に疑問を持つようになります。そして彼は事件をおこす。それによって、家族は引き裂かれていく。
信代の台詞から来て、ここでかなりウルッと来てしまった。
6.僕たち正しい演者が彼らを指弾する
この家族は万引きしています。「クソ野郎どもの家族」を演じ、絆を得ていた。
正しい家族が得られる本当の絆を盗み取っていた。
それが祥太の事件をきっかけに、正しい家族(りんちゃんを虐待していた両親)、正しい仕事を持つ者(刑事たち)、正しい世間(誘拐された子供を案じる他人)によって壊されていく。「盗んだのは、絆」だったけど、その絆を、それがゆえに正しい演者たちに盗まれてしまった。
盗んだのが絆なら、盗まれたのもまた絆だったと思います。
そしてこの盗み合いを演じた両者には圧倒的で絶望的な差がある。そして盗まれた物を完全に取り戻す事は、もう出来ない。
絶望とまではいかないゆるやかな破滅の中で、この作品は終わりを迎えます。
7.そしてまた、演じる。
それでも、祥太とりんちゃんのラストシーンに希望が残っている。
ネタバレを控えて書き残しておきたいのですが、二人は「まだ演じよう」としているのです。もう見てくれる人はいない。演じようとしているけれど、観客=家族は居ない。パパもママもおばあちゃんもいない。
それでも演じようしている。
暖かさと安らぎ、家族はそこにしかないから、盗み返す事でしか得られないから。
そう言っているように思えました。
亜紀の最後のシーンの行動もまた、二人以上に切実に演じる事を求めていると感じて、狂おしかった。(少し、救いようがないようにも思えたけど)
二人の最後の視線の先に、希望がある事を信じたい。そんなラストでした。
とても良い映画でした。
多分これでも、あんまり映画の空気感が伝えられていない。
あー本当に良い映画だったんじゃ~もう一回観たいよ~~~
観ろ。
後一言、安藤サクラ凄い良かった。以上。